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東京地方裁判所 昭和50年(ワ)7430号 判決

東京都新宿区信濃町二七番地二

原告 佐分利健

右訴訟代理人弁護士 浅見昭一

同 大西幸男

神奈川県茅ヶ崎市東海岸北四丁目三番一二号

被告 城山三郎こと 杉浦英一

右訴訟代理人弁護士 山田直大

同 山岸憲司

同 瀬川徹

右当事者間の頭書事件につき当裁判所は次のとおり判決する。

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一申立

一  請求の趣旨

1  被告は、その費用をもって原告のために、別紙の謝罪広告を、見出し、記名宛名は各一四ポイント活字をもって、本文その他の部分は八ポイント活字をもって、株式会社朝日新聞社(東京本社)発行の朝日新聞、株式会社毎日新聞社(東京本社)発行の毎日新聞、株式会社日本経済新聞社(東京本社)発行の日本経済新聞の各朝刊全国版社会面に、三日間継続して掲載せよ。

2  被告は、原告に対し金一〇〇万円及びこれに対する昭和五〇年九月一二日より支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  仮執行宣言(2項のみ)

二  被告

主文と同旨

第二主張

一  請求原因

1  原告は、元駐支公使故佐分利貞男の甥であり、子のない貞男から実子同様の寵愛を受け、今日においても、貞男に対し、実父と同様の敬愛の情を抱いているものである。

2  被告は、城山三郎のペンネームをもって、著述業を営む者であるところ、原著作物である小説「落日燃ゆ」(以下本件小説という)を執筆して、訴外佐藤亮一を発行者、訴外株式会社新潮社を発行所として、これを一冊にまとめた複製物である同一題名の小説の出版を同訴外人らに許諾した。

その結果、右小説は、訴外新潮社より昭和四九年一月二〇日付で初版として刊行され、その後も重版され、刊行発売されている。

3  本件小説は、元首相広田弘毅の伝記として著述されているが、東京帝国大学の同期であった貞男と広田が、同じ外交官として、貞男は一期先輩、広田が一期後輩の関係から、被告は、本件小説中に十数ヶ所に及んで両名を対照させている(文中、貞夫となっているのは、貞男の明らかな誤記である)。

4(一)  被告は、本件小説中で、貞男について、『それに、相手は花柳界の女だけではない。部下の妻との関係もうんぬんされた。(潔癖な広田は、こうした佐分利の私行に、「風上にも置けぬ」と、眉をひそめていた)』と記載している(以下本件文章という)。

(二) 本件文章は、事実無根であるにも拘らず、広田は潔癖であるが、貞男は外務省の部下の妻と姦通をした破廉恥漢として、二人を対照させている。

(三) すなわち、本件文章は、以下に述べるとおり、全体として、貞男の姦通行為の存在につき、それが高度の蓋然性を持つものであるかの如く推測させる機能を有している。

「相手は花柳界の女だけではない」との記載部分は「部下の妻との関係もうんぬんされた」という記載部分と結びつくことによって、部下の妻との関係の具体的内容が、花柳界の女に対するものと同一視しうるような、いかにも、反倫理的なものであったかのように推測させる機能を果している。

また『潔癖な広田は、こうした佐分利の私行に「風上にも置けぬ」と眉をひそめた』との記載部分は、その反倫理性を強調する機能を果すのみならず、前段で「うんぬんされた」と、あたかも噂のような記載をしていた部分について『「風上にも置けぬ」と眉をひそめ』るという具体的行為と結びつくことによって、その噂の内容が、かなり現実性をおびているかの如く強調する機能を果している。

5(一)  佐分利貞男は明治一二年一月二〇日佐分利好直、八代の五男として出生、同三八年七月東京帝大仏法科を卒業、同年一〇月外交官試験に合格し、清国、露国、仏国在勤の後、明治四二年四月一七日、明治の外務大臣小村寿太郎の長女フミ(通称文子)と婚姻、大正一五年北京で妻を喪ったが、昭和四年一一月二九日死亡するまで、亡妻の写真を肌身離さず持っていたほどの愛妻家であった。

(二) また佐分利貞男は、昭和七年東宮御学問所御用掛、外務省人事課長を勤めたり、同一五年外務省条約局長、その他重要な国際会議には随員に選ばれ、最後は、当時として、外交上、極めて重要な支那の公使に任命されるなど、人格識見ともに信頼が厚かったからこそ重職を与えられたのである。

6  ところで、姦通は昭和二二年法第一二四号で廃止される迄は犯罪であり、現在においても反倫理的な行為として厳しい社会的非難を受けるものである。被告はその著書の中で前記のとおり貞男が生前「部下の妻との関係もうんぬんされた」と記載することによって、貞男がその人格的価値について社会から受けている客観的評価、社会的名誉を毀損する行為を行なった。貞男を実父の如く敬愛してやまない原告は、被告の前述の如き記載に接し、激しい憤りと、耐えがたい精神的苦痛を現実に味わっているのであり、将来にわたってもかかる記載の著作物が出版され、社会に流布されていることによって味わい続けることになる。

7  以上のとおり、小説「落日燃ゆ」の著作者である被告は、原告に精神的苦痛を与えたものとして原告に対し損害を賠償する義務がある。

さらに、被告の不法行為は、今後も継続的に被害を与え続ける性質のものであるから、被告は、被害者である原告に対し、単に財産的賠償のみならず、原告が受けた被害の原状回復に適当かつ十分な処置をしなければならない。従って本件の場合、原状回復の方法としては、被告をして原告のために謝罪広告をなさしめることが適切な処分である。

また、被告が原告に与えた精神的苦痛は多大であり、右の謝罪広告を得たとしても、なお償いきれない損害は金銭に換算しても金一〇〇万円を下らない。

8  よって、原告は、被告に対し、請求の趣旨記載のとおりの謝罪広告ならびに慰藉料金一〇〇万円およびこれに対する訴状送達の日の翌日(昭和五〇年九月一二日)から支払ずみに至るまで、民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実中、故佐分利貞男が元駐支公使であったことは認め、その余は不知。

2  同2は認める。

3  同3のうち、「落日燃ゆ」が元首相広田弘毅の伝記であるとの部分、佐分利、広田の両名を対照させているとの部分は争うが、その余の部分は認める。尚本件小説中の佐分利貞夫が、佐分利貞男の誤記であることは認める。

4  同4(一)は認める、同4(二)のうち広田は潔癖であるとの部分は認め、貞男は姦通をした破廉恥漢として二人を対照させているとの部分は否認し、その余の部分は争う。同4(三)は争う。

5  同5(一)の事実中、貞男が五男との点及びフミが長女との点並びに亡妻の写真を肌身離さず持っていたほどの愛妻家であったとの部分は争い、その余は認める。同5(二)のうち、人格識見とも信頼が厚かったからこそとの部分は知らない、その余は認める。

6  同6のうち、貞男の名誉を毀損したとの点を否認し、その余は知らない。

7  同7は争う。

三  被告の主張

1  被告は、本件小説を作成した当時、原告の存在を知らなかったのはもとより、本件小説の中で原告の氏名を明記したり、又は、原告の氏名を推測させる様な記載をしたことは全くなく、又本件小説中には、原告の社会的名誉を傷つける様な箇所は全くないと確信している。本件小説の中には原告の名誉を傷つけた部分は存在しない。

2  被告は、被告の作家としての良心の許す範囲内において資料を集めて、広田弘毅が外交官として、また政治家として行動した当時の日本の状態を、一冊の本にしたもので、これは広田弘毅の伝記でもなく、況んや佐分利貞男と広田との人格或は能力等を比較したものではない。従って、一般の平均的日本人が被告の著書である本件小説を読んだとき、被告が佐分利貞男の人格或は名誉を毀損したと指摘する者はあり得ないと確信している。却って、貞男の外交官としての能力が優れていたことを世人に認識させ得ることはあっても、その品性を疑わせるとは考え得られない。

3  被告が、本件文章を本件小説に記載した資料は、元外交官で佐分利貞男より数年後輩であった人物から得たものであり、又原告から被告に宛られた手紙にも、年代は少し異なるがその様な事実は一つ確かにあった様だと記載されていることからしても、決して被告が故意に又は過って記載したことではない。

又、被告がその著書の作成の一つの資料とした松本清張著「昭和史発掘」の中にも、佐分利貞男が女性関係が派手で、その為ある女性の所謂「ヒモ」に脅迫されていた旨の記載もあった。尤も被告は、「昭和史発掘」の中にあるからとして、その旨をそのまま引用したのではなく、出来得る限り、貞男と生前中に何等かの、特に外交官として交際のあった外交官あるいは政治家に直接会って資料を得ることに鋭意努力したのである。

4  被告は、死者の名誉について次の如く考えている。死者にも名誉があることは認める。そして我が刑法も死者の名誉を保護法益としてはいるが、その構成要件としては、生存者の名誉の毀損と異なり、誣罔の場合にのみ処罰することにしている。即ち、故意に事実と異なることを記載して名誉を毀損した場合に限っている。これに対して民事では、死者に対する名誉毀損を不法行為とする直接の規定はない。然し死者の名誉を毀損することも理論的には可能であることは云う迄もないが、その場合の被害者は誰であろうか。死者は、不法行為の直接の客体ではあるとしても、生存しないのであるから、訴訟の当事者となり得る筈もない。尤も民法七一一条があるとの考え方もありうるが、同条は、大前提として被害者の殺傷ということがあるので、本件には全く関係がない。

5  仮に、原告が本件小説の為に精神的苦痛を受けたとしても、それは所謂本件文章と相当因果はないものである。

四  被告の主張に対する反論

1  被告が故人である佐分利貞男の名誉を毀損する行為をした結果、故人の遺族の一人であり、同人を実父の如く敬愛していた原告に対し、著しい精神的苦痛を与えた。原告は故人の甥であって、民法七一一条記載の関係ではないが、それ以外の者でも民法七〇九条の要件さえ充すならば、その受けた損害の賠償を請求しうる。

本件の如く故人である佐分利貞男に対する被告の名誉毀損行為によって遺族の一人である原告自身が精神的苦痛を受けた場合、被告の右行為は原告に対しても不法行為を構成するものというべきである。

2  原告は、被告の本件不法行為の被害者であって、民法七二三条により、被告に対し謝罪広告を求めうる地位にあるというべきである。同条による「被害者」を名誉を毀損された者のみに限定すべき根拠はない。

刑法二三〇条二項が、死者の名誉に対する侵害に対し、刑罰を課して死者や遺族の名誉を保護していることを考えるならば全法秩序の立場からみて、死者の名誉を毀損されることによって被害を受けた者の公平妥当な救済が必要である。

そして、このような被害者(多くの場合は原告のような遺族であろう)の固有の権利として、原状回復のために請求の趣旨記載の謝罪広告こそ必要である。

第三証拠関係《省略》

理由

一  故佐分利貞男が元駐支公使であったことは当事者間に争いがなく、《証拠省略》によれば、佐分利貞男は、明治一二年一月二〇日、佐分利好直、やゑの三男として出生、長兄一嗣(原告の父)の許で学業を終えたこと、原告は貞男の甥であるが、原告の兄弟の中では一番貞男に可愛がられ、且つ貞男には子がなかったため、齢七〇を越す現在も貞男に対し敬愛の情を抱いていること、原告は佐分利家一門の中から、外交官試験に首席で合格し、明治の外務大臣小村寿太郎から見込まれてその一人娘を娶り、エリート官僚として上昇一途の官歴を踏んだ貞男のような人物を世に出したことを家の誇りに思い、貞男を佐分利家の象徴の如くに考えていることが認められる。右認定を左右するに足りる証拠はない。

二  請求原因2は当事者間に争いがない。

三  本件小説中に佐分利貞夫とあるは、貞男の誤記であることは当事者間に争いがなく、《証拠省略》によれば、本件小説「落日燃ゆ」は、元首相広田弘毅を主人公とするが、広田と佐分利貞男は東大の同期生であり、外交官としては佐分利が一期先輩である(この点は当事者間に争いがない)ことから、右小説中に佐分利は、広田の競争者(ライバル)として十数ヶ所に及んで、比較対照させる形式で登場して来ることが認められる。右認定を左右するに足りる証拠はない。

四  本件小説七一頁に、『それに、相手は花柳界の女だけではない。部下の妻との関係もうんぬんされた。(潔癖な広田は、こうした佐分利の私行に、「風上にも置けぬ」と、眉をひそめていた)』との記述(本件文章)があることは当事者間に争いがない。

原告は、本件文章は事実無根であり、被告は、本件文章をもって故佐分利貞男の名誉を毀損し、これによって故人の近親者であって、故人を父の如く敬愛してやまぬ原告に対し耐えがたい精神的苦痛を与えたものであるから、被告に対し民法七二三条所定の原状回復処分としての謝罪広告並びに損害の賠償を求めるというので、以下この点について検討する。死者の名誉を毀損する行為により(例えば死者の名誉毀損に藉口するなどの方法により)、遺族等生存者自身の名誉が毀損されるときは、右生存者自身に対する名誉毀損の不法行為を以て論ずべきはいうまでもない。ところが、死者の名誉毀損が右のような場合にあたらず、あくまでも死者の名誉毀損にとどまるときはいかがであろうか。

現行法制の下においては、憲法二一条、刑法二三〇条二項、民法七〇九条以下不法行為に関する法条、その他関連の諸法規諸法条に鑑み、死者の名誉を毀損する行為は、虚偽虚妄を以てその名誉毀損がなされた場合にかぎり違法行為となると解すべきであり、そして、故意又は過失に因り、虚偽、虚妄を以て死者の名誉を毀損し、これにより死者の親族又はその子孫(これと同一視すべき者をふくむ。以下同じ。以下単に遺族という)の死者に対する敬愛追慕の情等の人格的法益を、社会的に妥当な受忍の限度を越えて侵害した者は、右被害の遺族に対し、これに因って生じた損害を賠償する責に任ずべく、また裁判所は、右被害を受けた遺族の請求に因り損害賠償に代え又は損害賠償と共に死者の名誉を回復するに適当な処分を命ずることができるものというべきである。

《証拠省略》を総合すると、故佐分利貞男は、明治三八年東京帝国大学仏法科卒業、同年一〇月外交官試験合格し、清国在勤、ロシア在勤、仏国在勤を経て、同四二年四月一七日明治の外務大臣小村寿太郎の娘フミ(通称文子)と婚姻(以上は当事者間に争いがない)、同四三年一月外務省条約改正係、同四五年五月仏国在勤三等書記官(一二月二等書記官)、大正五年九月パリにおける連合国専門委員会議委員(一二月一等書記官)、同六年一一月連合国パリ会議参列委員随員、同七年五月東宮御学問所御用掛、人事課長(この点は当事者間に争いがない)、同八年一月パリ講和会議全権委員随員、同年七月外務省参事官、同年一〇月米国在勤一等書記官、同一〇年駐米大使館参事官、ワシントン会議全権委員随員、同一三年五月通商局長代理、九月通商局長、同一四年一〇月支那関税会議代表者随員、同一五年五月北京にて妻文子死亡、同年八月条約局長(この点は当事者間に争いがない)、昭和二年四月ジュネーブ海軍軍備制限会議全権委員随員、同年八月英国在勤参事官、同四年八月駐支公使(この点は当事者間に争いがない)、同年一一月二九日箱根宮の下富士屋ホテルにおいてピストル自殺を遂げた、佐分利は亡妻の葬儀に際し外目をはばからず男泣きし、死亡の時まで亡妻の写真を持ち歩いていた、佐分利の死亡はピストル自殺であったため当時自殺の原因が色々取沙汰され、一部には他殺説も根強かったこと、以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右事実によれば、故佐分利貞男は、数々の重職を歴任した卓越した外交官として、相当の社会的評価を受ける存在であると認められる。

ところで、問題の本件文章は、後記認定のとおり、被告においてわざと表現をぼかした点も手伝って、読み様によっては原告主張の趣旨の如くに解しえなくもないものと認められるが、本件文章には原告自身に関連する事項は全くふくまれて居らないし、本件文章によって原告自身の名誉が毀損されたものと認めることはできない。

《証拠省略》を総合すると次の事実が認められる。

被告は、自己の従軍体験をもとに、組織と人間との関係の究極の姿としての戦争をテーマに意欲的な作品を著述しようと構想をあたためること数年に及び、戦争に巻込んで行った側の人物として、文官の指導者であり極東裁判において文官として唯一人死刑に処せられた元首相広田弘毅に焦点を絞り、取材活動二年、執筆期間一年を費して小説「落日燃ゆ」を著述し、同書は現在迄に約四五万部以上印刷され、これにより毎日出版文化賞、吉川英治賞を受賞した。

被告は本件小説を執筆するに当り、事前に自から取材をなしたが、その当時佐分利貞男の存在を全く知らず、元外交官堀内謙介、日高信六郎、吉田丹一郎の三名と順次面接・取材し、最後の吉田丹一郎(以下吉田という)の口から、広田と同時代の外交官達の話の中で、佐分利貞男の私行上の問題が語られた。

広田の直属の部下であった吉田が、広田から聞いた話を取り交ぜて語った内容は、「広田は佐分利を好いていなかった。佐分利は私行上問題があった。佐分利は妻帯中に部下の妻と関係があった。相手はそのために離婚され、困った挙句、佐分利に責任をとれとぶつかっていった。広田はそのことについて『風上にも置けない』といった。」という趣旨のものであった。

被告は、吉田の話の中で、「ぶつかっていった」という表現が非常に新鮮で面白いと感じ、他人のことを批評しない広田が珍らしく「風上にも置けない」と強い表現を用いたことを印象的に感じた。また、広田が相当程度佐分利を意識していたことを知り、小説にとりあげることにした。

その後、被告は松本清張著「昭和史発掘」三巻と、その中に引用されている佐分利の実兄秋山広太著「窓下漫筆」の中に、佐分利に相当女性関係がある旨の記述があることを知った(ただし、被告は、小説執筆に際し、「窓下漫筆」を読んだ訳ではない)。

被告は問題の文章を書くにあたり、姦通を含む広い意味の男女関係として、部下の妻との関係という表現を用い、問題の男女関係の詳細は五〇年後の今日では確認の術もないこととて、「うんぬんされた」として噂があったという表現手段を用いた。

被告はその取材活動を通じて、佐分利貞男の公人としての全活動を知り、さすがに幣原外交の片腕といわれただけのことはある卓越した有能な外交官であり、広田が一目おいて意識する程の立派な人物であると評価し、その認識のもとに筆をとり、本件小説の中においても、佐分利その人のスケールの大きさを正確に伝える努力を払ったが、その結果として広田と佐分利を比較することになった。

被告は、本件小説執筆の際、佐分利貞男に子がないことは知っていたが、原告の存在は全く知らず、本件小説刊行後、原告から問題箇所に関する厳重な抗議が来て初めて原告の存在を知った。

本件訴訟係属後に、被告が調査したところ、佐分利公使自殺事件の当時、事件を報じた新聞、雑誌には、同人の自殺の原因について、人妻との関係が噂として報道されたものが見受けられた。

また、被告が佐分利貞男の部下だった塩崎観三元サンフランシスコ総領事に面談したところ、同人は佐分利の問題の女性関係について噂を聞いたことはあるが、具体的な部下の名前や真偽の程は知らないと述べた。

以上の事実が認められ、証人日高信六郎の証言中、右認定に反する部分は、同証人は原告自身がその存在を認める事件の噂をも知らないと述べている点及び同証人は、外務省人事課長の職責において耳を傾けなければならない程度に達した具体的且つ現実的な話は知らないという趣旨或は約半世紀前の他人の恋愛関係の噂の有無についてであるからもはや記憶に残らないという趣旨で噂を知らないと証言しているものとも窺われる点、及び前顕採用証拠に比照して、いまだにわかに信用できず、原告本人尋問の結果中、右認定に反する部分も前顕採用証拠に比照してにわかに信用できず、他に右認定を覆して、本件文章(その記載事実)が、虚偽虚妄であると認定するに足りる証拠は存しない(佐分利貞男が死去してすでに五〇年に近い歳月が経過している。それに加えて本件証拠の程度では、本件文章記載の事実が、はたして客観的真実に合致しているものであるか否かは往事茫茫として、所詮、にわかに断ずることはできない。虚偽虚妄であると認定するに足りる証拠は存しないとは、右の趣旨をふくむものである)。しからば、前記説示判断に則り、本件文章による被告の行為は、違法性を欠くものというべきである。

なお原告本人尋問の結果によれば、原告は、誇りある佐分利家一門から叙上認定の重職を歴任した佐分利貞男を出したことを家門の名誉とも思い、同人を佐分利家の象徴とも思い、没後五〇年に近い今日も尚故人に深い敬愛追慕の情を抱き続けているところ、本件文章により右感情を傷つけられ苦痛を蒙っていることが認められ、原告の心情には同情を禁じえないところであるが、本件文章によって、原告自身の名誉が毀損されたものとは認めがたいことは叙上認定のとおりである。ところで、被告本人尋問の結果、弁論の全趣旨によれば被告は、佐分利貞男には子供がないことを聞いており、原告の存在や、原告の叙上のような苦痛は全く予見していなかったことであり、本件文章によって原告が苦痛を蒙ることは被告もまた不本意とするところであって、適宜の処置を考慮しないものではないことが認められることを付言する。

五  以上によれば、原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 後藤静思 裁判官 渡邊雅文 裁判官合楽正之は、職務代行を解かれたから署名押印できない。裁判長裁判官 後藤静思)

〈以下省略〉

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